陸前高田にいってきました
大震災から1年6か月もたってしまいました。私は議員団で何度も被災地に行きましたが、家族は行ったことがなかったので、夏休みを利用して車で行ってきました。あの迫りくる思いはもう感じられないのかと思っていたのですが、また、そうでなければならないと思っていましたが、 陸前高田の市街地はあのままでした。
市の観光協会が被災地のガイドをしてくれます。震災前の写真を見せてくれるのですが、それが同じ土地なんてとても信じられない。これがわずか30分の出来事だったのです。ガイドさんは言います。「今回被害にあったところは、50年前のチリ地震のあと宅地になったところばかりです。50年くらい被害がなかったからと言って、自然の力をあなどってはいけなかった。先人たちが建ててはいけないというところには建ててはいけなかったのです」。
奇跡の一本松も見ました。完全にコーティングして保存するために切り倒す直前でした。この保存に1億8000万円かかるということで、募金も集めているそうですが、このコーティングの補償期間は10年ということで、ガイドさんは「10年のために1億円以上も使うよりも、公営住宅を先に作ってほしい」といいます。
市役所も市民会館も7月に来た時のままでした。ようやく国の予算がついて、公共施設の解体も現実的になってきましたが、今年の母の日、公民館に「お母さんへ」という落書きが書かれたことが地元の新聞で報道されました。この公民館に避難して流されたお母さんへの感謝の言葉でした。この落書きだけは保存しようという声が上がり、書いた高校生が名乗り出たそうです。「自分はこれだけを残すことは望まない。残すなら全部残して、後世の人たちに二度と繰り返さないでほしいというメッセージにしてほしい」と言い、今論議になっているそうです。ガイドさんは「原爆の悲惨さをみんなが知っているのには、原爆ドームの役割は大きい。津波の恐ろしさを、自分たちがいなくなっても伝えられるものがあっていいと思う」と言いました。しかしなくしてほしいという人もたくさんいます。ただ壊れた建物を壊して新しいものを作ればいいというものではない、複雑な思いをみんなもっているのだと思いました。これらの建物を前に「こんな風に流されたのです」という生々しい話をいくつも聞きました。
泊まったのは、広田半島の「民宿 志田」さんです。獲れたての魚をたくさん出してくれるということで予約していきました。広田半島は、半島の根元が津波で完全になくなり、1週間以上も陸の孤島になってしまったところです。ガイドのコースでこの半島を見渡せる高台に行きましたが、いまだに、なめつくされたように何もなくなっているのがよくわかりました。
観光協会の人も、ガイドさんも「志田さんならお料理もいいし、いいところですよ」「陸の孤島になっていた間、ご主人が漁船で物資を運んでくれたのです。ほんとにいい人たちですよ」と紹介してくれ、期待していくと…。確かにすごい夕食でした!仕事で1年間この民宿に泊まっている人もいました。「自分たちはもう魚はいいって言っているんですよ」と、贅沢なことを言っていました。
ご主人と食事の時に一緒に飲みました。今はサンマとカツオが旬だそうです(夕食にも出ていました)が、陸前高田は漁港の冷蔵施設が再開していないため、水揚げは震災前の半分にもならず、地元の漁師は本当に困っています。そんななかで関東の居酒屋チェーン店の社長が「とれたものをそのまま直送してくれたら引き取る」と言ってくれ、なんと川崎も送り先になっているそうです。
お隣の気仙沼では、仮設の商店街でお昼を食べ、仮設の魚市場でサンマとカツオを買いました。我が家も2、3日魚ざんまいでした。
往復1200キロ。わずか1泊でしたが、たくさんのことを見て、たくさんのことを考えた2日間でした。若い人にとっては私たち以上に考えることが多かったことでしょう。