議員団で能登半島でボランティア活動をしてきました
5月21日、22日、議員団で能登半島地震の被災者救済のボランティアに行ってきました。日本共産党は様々な団体と「能登半島地震被災者共同支援センター」を能登半島の付け根の羽咋市に構えています。全国の仲間たちが支援物資やボランティアにここに集結し、私たちもここから出発しました。
私も阪神大震災以来、幾つもの被災地に行きましたが、これまでの苦労はなんだったのかと思うくらい、過去に学ばず、被災者を切り捨てるかのような実態を目の当たりにしました。
1日目はまずは被災の現場を、と輪島の朝市通りへ。あの日のままなのです。もう5ヶ月を過ぎようというのに、本当になにも手がついていません。ここのかたたちはいまどうしているのでしょう。1日も早く片付けて、次の道を踏み出さなければ、この光景を毎日見ていたら、心が折れるのではないでしょうか。輪島に行くまでにも、そこから宿舎に行くまでも、壊れたままの家がそのままになっている。「危険」と書かれた紙がもう日焼けしている。いったいいつまでこのままなのか。立ち直ることができないではないか。
2日目は、七尾市の仮設住宅を訪問し、支援物資を届けながら、お困りごとはありませんかと声をかけてまわりました。95戸もある大きなところですが、会えたのは23軒。多くの方が着の身着のまま入ったというのに、石川県は仮設住宅に入った途端に食糧支援を打ち切ります。年金だけでは暮らせないのに何もかも買わなければならない。コメや水、トイレットペーパーなど、本当に喜ばれました。そして、口々に、今の大変さを語られました。
地震で仕事を失い4ヶ月間避難所で暮らしたという女性は、仕事もできてようやく5月頭に仮設に入りましたが、ふところはすっからかんで、市からの支援は5万円のみ。一度も来るわけでなく「放り出されたという感じだ。今日皆さんが初めて困りごとを聞いてくれた」と訴えられました。仮設には冷蔵庫と洗濯機は入ることになっていますが、本人が受け取らなければならないため、昼間働いているといつまでも受け取れず、この方は1ヶ月、冷蔵庫、洗濯機無しの生活だったと言います。それくらいなんとかできるでしょうよ。
羽咋市のセンターから輪島市まで1時間以上かかり、1番被害の大きい珠洲市には、まだまっすぐ行くことができず2時間以上かかるとのことで、こんな短いボランティアでは、ほんのさわりのところしかできず、申し訳なく思いました。マスコミも政府も支援が足りないこと、片付けすらできていないことなど全く問題にしていません。もっと周りに知らせ、できることをしようと訴えたい。センターでは、人や物資を募集しています。